育つ子ども。


京都でまた痛ましい事件があった。
3歳になってもオムツがとれないからと父親とその同居している女は供述しているらしい。
この二人が虐待の意思があったかどうか、育児放棄するつもりがあったかどうかはこの際だからおいておく。


子どもは子どもの中で育っていくと思う。
この家庭の長女と、なくなった長男はまわりに同年齢の子どもがいなかったのではないか。
接している人間はほんのわずかな大人。
すべての価値基準はこの大人。
もちろん、子どもが小さいときの価値基準や善悪の判断の基準はまわりの大人が範たるべきであるのだけどこの事件ではあまりにこの子の世界が狭すぎた。


そして悲劇だと思うのは、この大人もそうではないか。
長女が6歳なら、親としても6歳なのだから。
この父親には範を垂れるべきさらなる大人が周りにいなかったこともこの事件の一因だと思う。


実は、うちの次男が生まれた頃は私は今の仕事をはじめたばかりでほとんど手をかけてやれなかった。虐待どころか自分の食事をとることもままならない、子どもに食べさせるだけで精一杯だった。もちろん時間的に。自分が昼ご飯食べるひまがあったら一文字でも一文節でも入力しなければ、と一番必死な頃だった。
おむつもなかなかいわゆるトイレトレーニングをすることができなかった。
危険だからとカギを中からしめていても次男はオムツのままでカギをあけて勝手に外に遊びにいってしまう。長男とは5歳ちがいで、その長男の友達によく遊んでもらっていたので外にはよく出て行っていた。


そんなある日のこと、次男が外からバタバタと帰ってきて、いきなりトイレの前で自分でオムツをとって自分でトイレを使った。
びっくりして子どもたちに様子をきいたら
「2号に『2号ってもうすぐ3歳なのにいつまでもオムツしてる〜、おかしい〜(笑)』って言ったらぷぃって怒って帰っていったの」という。


友達に笑われてくやしくて恥ずかしくて自分で行動を起こしたのだ。
私がなんとかしてオムツをはずさなければ、と気にしつつ手をかけてやれなかったことを友達の中で自分で意識してできるようになったことを目の当たりにして、私はそのときに
「子どもは子どもの中で育つこともあるのだ」と思った。
それと同時に親でなければできないことも改めて意識した。


「自分の子どもだけ遅れているのではないか」
「自分のやり方は間違っているのではないか」
こんなことで悩んでいる親、特に母親は多いと思う。
特に周りに相談できる相手もいなければ閉塞感を覚えてしまいそうになるのでないか。
私がそうだったから、その気持ちは十分理解できる。


しかし心配はいらないのではないかと、この春に義務教育を一人終わらせたばかりの私は思う。
「親はなくても子は育つ」という言葉はこういうことなのだと実感する。
周りとコミュニケーションをとりながら子どもは成長していくものなのだと。


これを読んでくださっている方の中には子育て中の方もいらっしゃることと思う。
子育ては試行錯誤の繰り返しで、第一子にはあてはまったことが二人目三人目に通用するとは限らない。
それでも私は子どもにときどき言っている言葉がある。
このブログでも冗談のように書いているが……
多少手前味噌になるがここに残しておこうとおもう。
それは、


「さすがわが息子」


親ばかといわれようが、本人たちが「やめろ恥ずかしい」というまで言ってやりたいと思っている。